カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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ヨシムラ

派生モデル

1967 kawasaki A1SS

[1967 A1SS]A1をベースに2サイクル車として初めてオーバークロスタイプのマフラーを装着したA1SS。そのバランスのよさに美しささえ感じる

A1SSは、アップマフラーにした当時はやりのストリート・スクランブラーだった。実際に不整地に入ることはなく、その点は次に続くC2TR、F1などのオフロード車群とは違うのだが、そんなイメージのスポーツ車として人気が高かった。A7はボアアップモデルで、350cc・40.5psを誇り、当時最速とされた。B8でいうなら、A1SSはB8T、A7はB8Sにあたる。A1R、A7Rは、アメリカのAMAレースを走るべく開発された。H2Rのようなハデな戦果はなかったが、カワサキとして初めてデイトナなどアメリカのAMAレースに参戦し、そのデータと経験をH1R、H2Rへ伝えることになるのである。1967年、A1Rデイトナに初挑戦! その監督は“第3話”の主役、百合草だった。

DAYTONA INTERNATIONAL SPEEDWAY

実際にデイトナを走ったときに入手したステッカー。1967という年号が歴史の重さを物語っている。現在のロゴとは書体が異なる

A1はカワサキとして初めて企画したアメリカ向けモデルで、次に見るようにそれは成功し、アメリカ市場への斬り込み隊長役をはたした。また、商品としては、その延長線上にH1、H2(750SSマッハⅢ)、Z1を見ることになるのであり、その点でも先駆者だった。

国内販売担当の川崎自動車販売(ジハン)でも、新しい250ccについての要求をまとめていた。新設の販売促進課で、後年アメリカのKawasaki Motors Corp.社長などを務めることになる野田浩史が弱冠30歳にして書き上げたそれは、「目黒とは違った重量車」たるべきことを強調していた(アメリカでのカワサキは、1966年、American Kawasaki Motorcycle corp.としてまずシカゴで、次いでカリフォルニアでスタートしたのだが、1968年、アメリカ全土をカバーするようになった機会に、Kawasaki Motors Corp.とあらためて今日に至っている)。

当時の日本では、250ccは“重量車”とされた。カワサキは、とくに重量車の世界では、吸収合併した業界老舗たるメグロ・ブランドの陰に隠れた格好だったし、また、販売店も、目黒系が圧倒的に強力だっただけに、そんな状態から脱却してカワサキ・イメージを確立したいジハンの思いがあったのだろう。だが、アメリカだけに視線を集中していた松本博之は、「そんな要求書、見た覚えもない」という。

A1と私

1966年1月26日、30歳になったばかりの私はアメリカへ飛んだ。英語を話すのは全然駄目、西も東もわからない無我夢中の状態で、まずシカゴに部品会社を設立した。その後間もなく、2〜3月に百合草のA1テストがあるのだが、その次第は“第3話”で詳しく語ることにしよう。

カリフォルニア州。全米オートバイ市場の20%を占めるそこの代理店ケン・ケイが破産しそうになった。彼はホンダ、ヤマハ、スズキが本社を構える全米最大の市場で、「カワサキなんて誰も覚えてくれない」とばかり、B8を「オメガ」というブランドで売るなど、いろいろ頑張ってくれたのだが、そんなことでは所詮ホンダ以下に太刀打ちできなかったのである(ケン・ケイ氏は“第1話”山本福三氏と一緒の写真にある)。だが、カリフォルニアでダメになっては、アメリカ市場全部から引き上げねばならなくなる。トーハツもマルショー・ライラックもそうだったではないか! 6月末、私はロサンゼルスへおもむいた。

「代理店に代わって、ホンダのように我々自身で販売できるかどうか、調査のうえ、8月中旬までに報告してくれ」との指示である。

しかし、何をどう調査すればいいのか、指示する浜脇洋二氏にもわからず、「ま、その大きな目玉でじっくりにらむんだな」というばかり、私も五里霧中のままの赴任で、この辺は、松本がB8やA1を始めたときと似ている。そのころのカワサキは、開発面でも販売面でも、30歳そこそこの若造たちが、五里霧中のなか、夢中で走り回っていた、ともいえるのだろう。我々のボスだった浜脇洋二氏にしても、36歳、課長になったばかりだったのだ。

幸いなことに、ケン・ケイからカワサキを仕入れて売った販売店約30のリストがある。私は、彼らをカリフォルニア州の地図上にプロットし、全部に聞き取り調査をすることにした。私は知らなかったが、これも松本がB8企画にあたって北海道でやった手法と同じである。ただ、カリフォルニア州は日本の1.2倍の面積があり、30店を回りきるには、土曜、日曜もすべてこれに当てて、7月一杯かかった。彼らのカワサキ評は散々だった。

「B8? あんな野ぼったいクルマは売れないよ」

わが愛するB8の実用車スタイルはアメリカ人には全然受けず、125cc・10­psは、巨大なアメリカ人を乗せては町中を走るにも頼りないようだった。

「J1? あんな小さなクルマ…」、85ccではそうだろうな。

それに、これらと似たようなモデルがヤマハにもスズキにもあるだけに、販売店にしてみれば、知名度が低くて売りにくいカワサキなどを扱う理由もないのだった。せっかくアメリカ向けとして持って行ったW1は、振動とオイル漏れで大不評だった。それに加えてホンダ、ヤマハ、スズキはメーカーがアメリカ法人を作って進出し、ディーラー指導を徹底していたのに対し、カワサキ代理店はアメリカ人の会社で、いつ手を引くやら一向に当てにならないだけに、販売店としても力の入れようがないのだった。要するに、カワサキを売ったことのある彼らのうち、続けて手がけようという向きはほぼ皆無なのだ。さすが強気の私も、「これではカリフォルニア販売は難しいな」と思わざるを得ないのだった。

“百合草テスト”で風向きが変わる

だが、そのうちに風向きが変わって来た。一面識もない若い夫婦から「新しくカワサキ専門の販売店をやりたい」というありがたい申し出があり、会ってその理由を聞くと、
「テキサスでテストしたカワサキの250ccはX6よりも速いらしい。ツイン・ロータリーディスクバルブを装着しているそうな。いきなりそんなニューモデルを持って来るとは、その背後に高い技術レベルのあることがうかがえる。メーカーはもともと航空機をやっていて、かの有名なゼロ戦を作ったんだって」

X6は“第3話”で再三登場するスズキT20のアメリカ名で、当時最速の250ccとされていた。第二次大戦初期、世界の空を制したゼロ戦を作ったのは川崎ならぬ三菱重工業だったのだが、この際不問に付すことにした。彼の最後の一言は今も忘れられない。
「Kawasaki is the coming thing now!(今からはカワサキの時代だ!)」といったところだろうか。

アメリカは広く、テキサス〜カリフォルニア間は遠い。ヒューストンからロサンゼルスへ2,500kmもある。だが、バイク屋、バイク・マニアの世界は狭く、彼等間の最大の話題はつねにニューモデルだ。“百合草テスト”の噂はその後4ヶ月にしてカリフォルニアにまで伝わり、この若夫婦をもまねき寄せたのである。ただし、残念ながら、この若夫婦がカワサキ販売店になることはなかった。私が要求するだけの資金を用意できなかったし、2人とも学生で仕事の経験がなく、そんな彼らに一市場を任せるわけにはいかなかったからである。もともときわめて日本的、情緒的な私だが、そんな私なりに、この国でビジネスをやる非情さを徐々に身に付けつつあったのだろう。

やがて、私に「カワサキはもう絶対売らない」と明言した販売店たちからも、「あの250はいつ来るんだい? 早く売りたいものだ」とさま変わりの電話が相次ぐようになった。私が知らない販売店からも、「ぜひやりたい」の電話が相次いだ。私はいちいち出向いて、それぞれの店について評価し、それを書き留めて開業に備えるのだった。

8月中旬に東京へ郵送された私の報告書は、カリフォルニア州で代理店に代わって販売できることを述べ、成功の条件として、第1にはA1に続いてアメリカ向けのニューモデルを次々に持って来ること、第2にメーカーたる川航自身が出て来てアメリカ・ホンダ並の販売店指導を行なうことを上げている。もしA1テストの噂がなかったなら、私の報告書は違ったものにならざるを得なかった。また、現実に、A1がなかったら、カリフォルニアでの販売は開始できず、カワサキがアメリカに販売網を築くこともなく、今日のカワサキはなかったことだろう。

1966年7月、海の向こうの明石工場では、A1初号機がまさにラインオフしようとしているところだった。

「この新250ccにニックネームをつけよう!」という議論がうるさくなった。東部代理店の若いセールスマンが言い出しっぺで、“サムライ”にしよう、とがんばる。ニューモデルのネーミングはその命運を左右しかねない。今なら調査会社やマーケティング会社などに依頼して巨額の予算をかけるべきところだ。だが当時は、会社もまだできておらず、金は全然ない。私は、販売店やレース場で知り合ったバイク好きなど、手当たりしだいの人々に当たってみた。
「サムライで連想するのは?」に対しては、「戦う人」、「主人に忠実」、「家族を大事にする」、「勇敢」など概してプラス・イメージが多い。ただ一つ、「ハラキリ」につながることだけはいささか困ったが、ともかく、これで行く、と決めたのだった。

種子島 経

1960年、東京大学法学部卒。川崎航空機工業(現・川崎重工業)に入社。1966年からアメリカにわたり、Z1の開発にたずさわるとともに市場開拓に尽力した。当時の苦労話をまとめた書籍をはじめ、数冊を執筆している




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