カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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若きカワサキマンの、自分たちが作り上げるマシンへの熱い想いと行動力が、不可能を可能にする。そして、そのパワーが存続さえも危ぶまれていたカワサキを大きく躍進させたのだ。

1966 kawasaki A1
[1966 A1]クラス最強・最速のコンセプトのもと開発された今回の主役A1。そのスタイリングはスポーティな雰囲気をかもし出している

日の丸に送られて

最初からアメリカ向けとして開発されたサムライ。だが、開発段階で走ったのは、ほとんど明石工場内の狭くて短いテストコースと周辺の市街地だけに限られていた。そこで得られたデータはほぼ計画どおりの数値で満足すべきものだったが、伝え聞くアメリカのフリーウェイでは一体どうだろう? ちゃんと走るだろうか? 耐久性は大丈夫か? 現地で実際に走ってみないことにはわからない。だが、1966年、アメリカはまだ遠く、その事情などほとんど不明のままだった。

川航ではシカゴとロサンゼルスに駐在員事務所を開設し、シカゴには部品会社もできていたが、走行テストの役に立ちそうな人間など、着任後間もない私も含めていそうになかった。技術部門の人間でアメリカを走ったことのある者は皆無。アメリカの地で、英語をしゃべって、アメリカ人を使ってのテストなど、一体どうやったらできるのだろう? かくて、その必要性は誰にも痛感されながら、アメリカ・テストを実行するのは不可能に近いのでは、と思われていた。

そんななかで、私の渡米から数日遅れた1966年1月末、百合草三佐雄は1人JR明石駅から東京、羽田空港へと向かった。A1とF2各1台と大量の研究部品が別途空輸されていた(F2は175ccのオフロード車。分離給油方式採用)。その彼を見送るべく、技術部を中心に数十名のカワサキ・マンたちが、手に手に日の丸の小旗を掲げながら、明石駅頭に集った。その二十数年前まで、出征兵士を見送る風景として見なれたものの再現である。実際彼らは、百合草のテストがうまくいくことを、彼らの作ったA1がアメリカで通用し、そこでカワサキの道が開けることを、本当に祈る思いで集まったのである。もしもダメなら、カワサキにも彼らにも明日はないのだ。それは、国運をかけた戦争で、出征兵士を戦地へ送り出す気持ちにも似て、必死の思いに満ちていた。

車中から彼らに手を振って応えながら、肝心の百合草は不敵に落ち着き払っていた。

「目的は3つ、と決めていたね。第一にA1がアメリカの道で通用するのを確かめること。これは明石でのテスト結果からして自信があった。第二に今後アメリカ向けのバイクを開発するにはどんな点に留意すべきか探ること。これをつかむには現地で走ってみるしかないんだが、カワサキではそれまで経験したことがなかったんだからね。そして第三に販売店など、なるべく多くの人々に会ってアメリカ市場を理解することだった」

カワサキ明石工場内でのテスト風
カワサキの明石工場内でのテスト風景。確かにここからアメリカのフリーウェイを想像することは不可能に近いことだろう

百合草三佐雄、1960年に私と同期入社で社歴6年、年齢も同じ30歳。並みいる部長、課長、係長連中を差し置いて、こんな平社員の一若造に、かように重要で会社の命運を左右しかねないテストを任せきったあたりが当時のカワサキらしいし、彼はまたそれを見事にやり抜いて期待に応えることになるのだが、ここで彼の人となりを見ておくことにしよう。

大学では航空原動機を専攻した生粋の飛行機野郎。航空機のジェットエンジン開発に従事すべく“川航”へ入ったのだが、こと志と異なり、B8発売をひかえて開発部門強化を目論むオートバイの技術部へ配属され、実験研究畑を主に歩いた。レース監督も勤めた。1976〜1981年までアメリカのR&D(開発センター)長、1986〜1991年までアメリカの販売会社KMC社長職をこなすこともやった。開発と販売を生命線とするオートバイ事業にあって、その両方の責任者役を勤めたのだから、やがてはその全体を統括する立場に立つことを約束されていたと言えよう。ところが、この男は、アメリカから晴れて帰国した翌年となる1992年、年来の夢をかなえるべくジェットエンジン事業部への転籍を要求して本当に異動してしまった。57歳にして、いわばトップの座が約束されていたオートバイ部門を出て、新しい分野へチャレンジしたのである。だが、そこでも実力を発揮して、川重常務取締役、航空宇宙事業本部副本部長兼ジェットエンジン事業部長などを歴任、1999年に退職している。しかし、それで老い込むような男ではない。

それからさらに、石原慎太郎東京都知事の提唱で立ち上がったアジア大都市ネットワーク“中小型ジェット旅客機の開発推進委員会”の企画委員を務め、日本で、アジアで、ジェット旅客機を作る夢に向かって現在も活動を続けているのだ。

サムライのアメリカ・テストを任されたのはこんなスケールの男だったのである。

百合草三佐雄
若かりしころ、まさにサムライのテストを担当したころの百合草氏。その温和そうな容姿からは、彼が話に出てくるような豪傑には見えない
種子島 経

1960年、東京大学法学部卒。川崎航空機工業(現・川崎重工業)に入社。1966年からアメリカにわたり、Z1の開発にたずさわるとともに市場開拓に尽力した。当時の苦労話をまとめた書籍をはじめ、数冊を執筆している




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