カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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当時を知っているからこそわかることがある。混沌とした時代にこそ、我々は忘れ去られつつあるカワサキ創成期のあらゆるエピソードを今に伝え、その想いを受け止めるべきではないだろうか。今回は、航空機事業から単車事業へ異動してきた男が、外部と内部の観点から創成期を語る。

航空機部門から単車部門への異動

昭和37年、日本の二輪産業は急速な成長期にあった。世界の二輪産業において、布石の時代から攻撃の時代へと転換すべく、積極的な輸出攻勢に転じていたのである。この年の日本での年間二輪生産台数は167万5000台で、この数字は世界一の生産台数であった。一方、急成長にともなう技術戦争に付いていけないメーカーが続出する。昭和30年代、大小80以上もあった日本の二輪メーカーは次々に二輪事業から撤退、もしくは倒産していった。

このような状況のなか、カワサキは事業部制を初採用し、二輪事業を中心事業とした発動機事業部を新設する。しかし、新事業部の設立もむなしく、二輪事業の業績は悪化の一途をたどってしまう。この業績悪化に歯止めをかけるキッカケとなったのが、モトクロス大会でのB8の活躍だった。昭和38年に兵庫県青野ヶ原で開催されたMFJ兵庫支部主催第1回モトクロス大会125cc級で、初出場のカワサキが、B8をもって1位から6位までを独占したのである。カワサキの名声はこれを契機に急速に高まり、販売に弾みがついていった。

日本の二輪産業、そしてカワサキの二輪事業が、めまぐるしく変化していく渦中の昭和37年、田中英一は川崎航空機(現、川崎重工業)に入社する。とはいえ配属されたのは単車事業部ではなく、航空機の資材部材料管理課だった。そのため、二輪が生産されていた明石工場ではなく、航空機の生産拠点である岐阜工場への勤務となった。

二輪事業の変化以上に、戦後、日本の航空機産業は激動の時代を迎えていた。敗戦国である日本は、アメリカをはじめとした連合国の軍事占領下におかれ、同時に航空機の製造が禁止されてしまう。したがって、軍需工場として飛燕や屠龍などの戦闘機を製造していたカワサキも、航空機の製造停止を余儀なくされたのである。

「私の父もカワサキに勤めていて、太平洋戦争前、ドイツでエンジン設計を勉強していました。その折、戦争が始まったので、図面などを抱えて急いで帰国したそうです。終戦後はというと、作る物を規制されてしまったため、カワサキは工場建物などの鉄骨を売ったり、火鉢や鍋・釜などを作り食いつないでいたと聞かされました」

日本が航空機の生産を許可されたのは昭和26年のことで、カワサキも再び航空機の製造に着手する。それから11年後の昭和37年、田中はカワサキの航空機事業にたずさわることとなったのである。田中が入社するころになると、連合国による製造物規制の影響はほとんどなかった。

「私がいた材料管理課いうのは、航空機の資材を購入する課と製造部との間に入って、資材をコントロールしていたんです。生産する時期に合わせて、物はいつ買わないかんのか。それを管理していました。そのとき何を作っていたかというと、F104いうペンシル型の戦闘機や。この戦闘機をアメリカのロッキードからバラバラの状態で輸入して、それをこっちで組み立てて自衛隊に渡してたんや。私はその部品の手配と在庫管理をしていたわけです」

この資材部に3年間勤務した後、田中は自動車事業部に異動する。大阪営業所で冷凍車やバスを販売。その後、単車事業部へとやってきた。昭和42年のことだった。

「明石に来る前は、カワサキに対してオートバイのイメージはあまり強く持ってなかったですわ。オートバイ作ってるいうのはもちろん知っていたけれども…。というのも入社してからいきなり岐阜工場でしょ。単車事業の連中と接する機会もほとんどなかったし、岐阜工場の連中でも、二輪に乗っているのはほとんどおらんかったから」

造船や田中が所属していた航空機といったように、カワサキはかねてから多彩な事業を展開しており、会社の規模も非常に大きい。そのため勤務地が異なれば、従業員が他の事業に抱くイメージも薄くなってしまっていたのかもしれない。ただしカワサキにとって二輪事業は会社経営という点で非常に重要な存在だったのである。

「オートバイいうのは、カワサキにとって売上の点で重要な立場だったんですよ。というのも売上高が多額であっても、受注から納入までが長期間を有していた他の事業部に比べ、単車は単価が小さくても、販売台数が多く、日々出荷が出来て短期間で売上計上されるし、売上高も高かったので、そりゃカワサキのなかでも重宝されていましたよ。月産5万台達成の時期もありましたから」

世界で争奪戦が繰り広げられる人気車両を輸出に先立ち日本各地で撮影

その単車事業部への異動の声が田中にかかる。

「『単車事業が忙しくなるから、こっちへ来へんか?』と言われてな。私はもともと垂水に住んでいたので、もっけの幸いと、明石だったら行きますわ言うてな」

配属は輸出部輸出管理課で、二輪を輸出する際、各国へ輸出する割合を管理した。ちょうどそのころは、Z1の発売が開始されたころでもあった。

「そのときはもうZ1は取り合いですわ。ヨーロッパとかアメリカとかの営業担当者が、『早く送らんかい!ドイツにくれてイギリスにはくれんのかい!』とか言うてくるわけですよ」

販売対象エリアによって車両の仕様は異なる。このとき重要になるのが生産方法だ。現在でこそ車両は平準化生産されているが、当時はロット生産だったため、たとえば北米仕様を生産している間は、欧州仕様の生産は一時的にストップしてしまうのである。しかしZ1のような売れ筋車両になると、各国のディーラーが、そのような生産事情をそっちのけで輸出を催促してくるのである。このときどのエリアの仕様車をどのタイミングで生産するのかを生産管理が管理し、田中は、生産された車両をどの国へ輸出するのかを管理していた。

田中は輸出管理以外にも広告宣伝にもたずさわり、外注の広告製作会社が提案してくる広告宣伝物に対して、予算組を行ない、メーカーサイドの担当者として、海外向けリーフレット・ポスター、カレンダーの撮影やピーアール映画撮影にも立ち会った。撮影現場はスタジオだけでなく、山間部・市街地・ハイウエイといった屋外も多かった。

「1週間なり何なり、撮影現場に泊まり込みで行くわけやな。撮影地はいろいろや。熊本のやまなみハイウエイとかに単車を持って行って、そして外人ライダーを呼んでな」

この撮影現場で、広告宣伝会社が提案した内容と撮影内容が一致しているか、現場の安全を確保しているか、悪天候などのトラブル時における撮影実行の可否などを田中が判断していた。

「私は航空機では購入部門にいて、自動車では販売員で、二輪では広告宣伝物の製作、出荷業務、部品の購入にもたずさわりました。だから売ったり買うたりを行ったり来たりやったしな。そんなかで思ったんは、やっぱり人とは顔を見て話しせなあかん。あやまるにも怒るにもな。そうすればことがすんなり進むことが多いんや。やっぱり人間やもんな」

カワサキ車両撮影風景
昭和49年、翌年に発売が開始されるモデルを富士五湖周辺から伊豆半島にかけてのエリアで撮影。モデル、製作会社、メーカーの立ち会いスタッフなどが現場で、撮影にあたった
カワサキ車両撮影風景
都心での撮影は朝早い。まだ街が動き出す前、東京都新宿で、ビル群をバッグに新車の走行シーンを撮影。車両の撮影は、ワインディングが豊富な山間部だけではなく、市街地でも行なわれた。昭和49年のことだ
カワサキ車両撮影風景
広告宣伝物用の写真撮影には、毎年、新車が出る時期にまとめて行なう。トラックに単車を積込み撮影地に輸送して、それぞれのコンセプトに合せて広告宣伝物用の撮影を行なっていた
プロフィール・田中英一

昭和12年3月19日生まれ・兵庫県神戸市出身。昭和37年、川崎航空機に入社。資材部材料管理課に所属し、F104戦闘機の部品調達に関与する。自動車事業部の営業を経て、昭和47年に単車事業部に異動。輸出部輸出管理課に所属し、海外向け単車の輸出台数を管理する。同時に、新車販売のための広告宣伝物の製作に関与。そして単車の保管と出荷業務、単車部品の購入に従事。平成10年に定年退職。




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