カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

ページを共有

[PR] YOSHIMURA

メーカーとしてカワサキが生き残る最初の壁は、出発地点にあった。まさにその時代に現場にいた者しか知り得ない事実。そんなエピソードを紹介しよう。

カワサキは消えるはずだった

戦後の貧しさのなか、自転車の前輪に取り付ける小型エンジンに始まり、やがて50ccのモペットが国民の足となった。そのメーカー数は一時日本中に100社を越える盛況ぶりだった。58年、ホンダスーパーカブ発売! その飛び抜けた商品性はなみ居るモペット群をなぎ倒した。さらに合わせて、当時はお客から手形を受けての販売だったのだが、その管理に行き詰まって資金繰りに窮するなど、メーカー数は急速に減少。たちまち10社を割るまでになった。

我がカワサキは、川崎航空機工業(株)(以下「川航」)神戸製作所(現在の明石工場、明石にあるのに戦争中から「神戸製作所」だった)でオートバイのエンジンを生産して、東京都葛飾区金町の川崎メイハツ工業(株)へ供給し、同社がそれを組み込んだメイハツ・ブランドで販売するやり方だった。川航はオートバイではなく、そのエンジンだけを作っていたのである。だが、販売は一向にふるわず、採算は悪化する一方で、カワサキの経営陣は、多くの競合社にならって、この市場から撤退することを検討していた。カワサキの灯は消える寸前だったのである。そんななかで、常務取締役神戸製作所長の山本福三だけが、なんとかこの事業を存続させようと孤軍奮闘していたのだった。

59年、この年ホンダはマン島レースに初めて参戦し、やがて“世界のホンダ”の座へ駆け上がることになるのだが、その秋、結婚したばかり、若干25歳の技術者松本博之が山本に呼ばれた。
「メイハツは一向にパッとしない。一体どんなオートバイを作ったら売れるのか考えろ」というのだ。

常務取締役が、工業高校を出て入社7年目の若造に直接命令するなど、この規模の会社では普通考えられないことだ。しかし、当時のカワサキでは、この2人の間に部長も課長も係長も誰もおらず、それほど手薄なオートバイ陣容だったのである。

メイハツは、北海道、東北地方で強い、とされていた。松本は、1人北海道へ渡り、販売店を片っぱしから歴訪して、メイハツB6、B7の評価を聞き、どうすればもっと売れるか、たずねて回った。1ヶ月間にわたって北海道中の販売店の声を聞いたのだが、それは要するに、「B6、B7はスポーツ性がきつすぎる。悪路を荷物を積んで走る北海道には向いていない。悪路に強い実用車でなければダメだ」というのである。田んぼ道まで舗装されている現在とはさま変わりで、当時はほとんどが未舗装のガタガタ道だった。北海道だけではなくて日本中がそうだったのだ。松本は、「じゃあ、そんなバイクを作ろうじゃないか」を結論に明石へ帰ったのだった。それまでの川航はエンジンを作るだけだったのだから、これはカワサキとして初めての市場調査、製品企画でもあったのである。

1960 メイハツ B6
[1960 B6]正式な車名はメイハツ125-60となる。B6というネーミングは、川崎航空機が開発したエンジン名、KB-6ASに由来する
1961 メイハツ B7
[1961 B7]正式な車名はカワサキ125B7。前年にリリースされたメイハツ・ニューエース125をベースに、より実用車然としたモデルへと生まれ変わった
種子島 経

1960年、東京大学法学部卒。川崎航空機工業(現・川崎重工業)に入社。1966年からアメリカにわたり、Z1の開発にたずさわるとともに市場開拓に尽力した。当時の苦労話をまとめた書籍をはじめ、数冊を執筆している




人気記事





カワサキイチバン