カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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ヨシムラ

B8M

画像がカラーではないので分かりづらいが、当時のマシンは赤が基調だった。タンクに書かれたロゴには“カワサキ”とカタカナを使ったモノもあった

思いもかけない副産物

B8ベースのB8Mは、市販モトクロス車として各地のMFJシリーズで活躍した。それを倍近い排気量238ccまでボアストロークアップしたF21Mは、山本隆に日本チャンピオンをもたらした。それはまたアメリカへ輸出されて、そこでのダートレースなどでも活躍することもあった。倍近くにまで排気量アップしてなおチャンピオンマシンたりえたあたりにも、松本エンジンの頑丈さがうかがわれる。

カワサキのモトクロス車は、ライムグリーンがカワサキのレーシングカラーとして採用されるまで、“赤タンク”で親しまれた。もともと北海道の地で実用車として企画されたB8が、赤タンクのカワサキ、モトクロスの王者としてカワサキのスポーツイメージ向上に大きく貢献することになったのである。

松本は、悪路に強い実用車B8のために、特許を取得した“三重ろ過エアクリーナー”を考案し、搭載することもしている。燃焼室へ悪路からゴミが侵入するのを防ぐべく、三段構えでゴミを除去する仕組みである。また、バッテリー上がりによるセル始動不良を防ぐ工夫もこらされている。25歳のエンジニアは、自分のねらいどおりの車両に仕上げるべく、短い開発期間中にあらゆる可能性を追求したのであり、この姿勢は後に彼が手がけるサムライA1や500SSマッハⅢ(H1)でも同じである。実に、B8がなければカワサキはなかったのであり、B8こそカワサキの原点とすべきであろう。

B8と私

60年4月、川航に入社したばかりの私は、B8が欲しくてたまらなかった。62年夏、ボーナス支給日に妻が九州の実家へ帰って不在だったのをいいことに、それを全部注ぎ込んで頭金とし、待望のB8を手に入れたのだった。帰宅した妻は、狭い庭に鎮座ましますま新しいバイクに驚き、当てにしていたボーナスが1円もないのに腰を抜かした。これで彼女は、ボーナス時期には決して家を空けてはならないことを痛切に学んだのである。

私は明石工場への通勤の他、岡山や鳥取などへのグループツーリングを再三楽しんだ。まだ高速道路がなく、国道2号線や175号線を、また往々にしてデコボコだらけの県道をも走る遠乗りには、B8の低速に強い10馬力は本当に快適だった。

職場の忘年会の夜、1人残って仕事をしていた私は、早く飲みたいばかりにB8で駆けつけ、しかも、しこたま飲んだ挙げ句、みんなが止めるのを振り切って、B8で帰宅した。翌朝目覚めると、身体中のあちこちが痛く、手足には包帯が巻いてあり、妻は鬼のような顔をしている。狭い庭でB8は一応センタースタンドに乗っているのだが、見れば、チェンジペダルもブレーキペダルもねじ曲がり、クラッチレバーは欠けている。左右一度ずつ転倒したらしい。どうにも動かすことができず、友人の助けを借りてなんとか修理工場まで運んだのだが、こんなバイクを泥酔状態で、どうやって転がして帰ったのか不明のままである。今日の交通事情なら、間違いなく自動車にはねられてお陀仏になっているところだった。

66年1月、私はアメリカへ赴任することになった。そこでの話は“第2話”以降にゆずるとして、私は愛するB8を他人の手に渡すに忍びなかった。さりとてそれをアメリカまで持参するなど許されることではない。結局、私はそれを熊本の義父へゆずることとし、彼は長い間、自動車に乗り替えるまで、これを商品運搬などに愛用してくれたのだった。
北海道生まれの実用車B8は、九州の地でなおその役目をはたしてくれたのである。

M5

1960年ころ、M5とともに。右から山本福三、ケン・ケイ(アメリカ西部代理店主)、谷岡恭也(山本没後、後継者として常務取締役神戸製作所長)

※文中敬称略

種子島 経

1960年、東京大学法学部卒。川崎航空機工業(現・川崎重工業)に入社。1966年からアメリカにわたり、Z1の開発にたずさわるとともに市場開拓に尽力した。当時の苦労話をまとめた書籍をはじめ、数冊を執筆している




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