カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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服部謙治
仙台にある宮城メグロ前でメグロ・スタミナZ7の白バイ仕様にまたがる服部青年。白バイの整備もサービスマンたる服部の仕事の一つだった。昭和37年の写真だ

現場にいたからこそ、わかることがある。混沌とした現代にこそ、忘れ去られつつあるカワサキ創成期のあらゆるエピソードを今に伝え、その想いを受け止めるべきではないだろうか。今回は、東北地域でのサービスマンとして、技術を伝えてきた服部謙治氏に話を聞いた。

ハム工場での出会いがすべての発端に

「昭和31年に中学校を卒業して、集団就職で横浜のハム工場に勤めたんですよ」

そう語るのは、宮城県を中心に東北6県でメグロとカワサキのサービスマンとして活躍してきた服部謙治である。彼が初めてバイクと出会ったのはこのハム工場であった。

「工場の息子さんが昌和のクルーザーというバイクを持っていてね。すごいなぁとヒマさえあれば眺めていたんです。それで叔父さんがバイク屋だったのを思い出して、工場をやめて叔父さんの世話になることにしたんですよ」

当時は数多のバイクメーカーが乱立していた時代で、どの販売店でもあらゆるメーカーのバイクを扱っていた。叔父さんの店も同様で、店を手伝いながらも、服部は国産ビッグバイクの先駆けとなったメグロにほれこんでいった。
「メグロはバイクの王さまでね、すごくカッコよく見えたもんです。一番大きいのは650ccのセニアっていうモデルで、新聞社の人が乗るような(いわゆるプレスバイク)高級なバイクでした。確か仙台でも1台だけ産経新聞にあったなぁ」

こうした想いが通じて、やがてメグロに入社することに。“いとこ関係ということもあって甘えもあったんでしょう”と述懐するように、修行の意味もあったようだが、とにかく叔父さんのツテで念願のメグロへと入社することになる。仕事は主に県内の販売店へのサービスだった。

「技術指導といって、県内の販売店を回っては修理の仕方を教えていました。それと東北では雪印とか明治とか、乳業会社に獣医さんや人工授精士さんが大勢いて、彼らはバイクで牛を飼っている農家を見て歩くんですよ。でも、メグロみたいな大きなバイクを修理できるところは数少ないから、われわれが年に1回くらい点検しに行っていたんですね。いわゆる巡回サービスです」

当時は四輪が普及しておらず、企業によっては10〜20台の大口納車もあった。そうした企業を訪れてメンテナンスを行なっていたのだ。
「当時は塗装(当時はほとんど黒)をしなおしたり、メッキをかけたり、アルミ部品をバフがけしたり、エンジンをオーバーホールしたり。そういうのが主でしたね」

本社からの応援もあったそうで、Zのチューナーとして知られる北見氏やその親分の馬場氏なども何度も訪れた旧知の仲なのだとか。

やがてカワサキがメグロを合併吸収

カワサキがバイク部門を立ち上げたのはちょうどそのころのこと。1960年1月に単車部を設立し、9月にはオートバイ組み立て工場を完成。さらに同年11月に売上低迷を続けていたメグロとの業務提携に踏み切っている。そして62年には資本参入により目黒製作所からカワサキメグロ製作所と改称され、その2年後には川崎航空機工業が株式を全面取得し、名実ともにカワサキとなる。服部もその渦中にあった。

「最初、“宮城カワサキメグロ販売”という長ったらしい名前になったんですよ。バイクも当初はカワサキ・メグロというブランド名で売り出していました。もともとメグロには500ccのスタミナK1(1960年発売)っていうモデルがあったんですが、その後カワサキの技術が入って改良されたK2(1965年)というモデルになった。これがよかったですね。K1はまったくダメなモデルでね、あちこちすぐに壊れてしまったんだけれども、K2はそれはすばらしいモデルに仕上がっていたんです。レイアウトは同じなんですけども、フルモデルチェンジといってもいいぐらいに変わってました。K1はコンロッドの大端部(のベアリング)がメタルだったんですけども、K2からは確かニードルベアリングになったんじゃなかったかな。とにかく丈夫で乗りやすくて、いいバイクでした。その後にそれをボアアップして650ccにしたのが有名なW1です。これが大当たりしたんだね。一番売れたのはその次のW1Sだけど、これはブレーキとチェンジペダルが左右逆だった。W1SAからは通常と同じ配置に変えて、それからは一般の人も乗るようになったね。性能は特別よくはなかったけれども、音がよくて、50km/hくらいで峠を走るとエンジン音が山に反射して気持ちいいんですよ。でもシリンダーヘッドからの油漏れが多くてね。いろいろと対策したのを覚えてます」

さて、メグロという名前が消えていくなか、服部の想い入れもさぞかし深いものがあったのかと思いきや、当時日本中に吹き荒れたモトクロスブーム(当時はスクランブラーといった)にすっかりはまってしまい、それどころではなかったようだ。

「仕事でも趣味でも山のなかを走り回ってたし、バイクに乗らない日はなかったから、レースでトップを走るようになるまで1年とかからなかったですよ。あのころは地方のモトクロスレースでも全日本なみでね、アドバルーンは上がるし、メーカーは来るし。私はアマチュアでしたけど、プロと一緒に行動してましたから、星野(一義)さんなどと同じ宿に泊まってそろいのジャンパーなんかも作りましたよ。観客からサインを求められたりして“お前はまだ早い”って馬鹿にされましたけど(笑)」

当時のモトクロスといえば、よく知られているのが、一世を風びしたカワサキの赤タンクチームであろう。

「ちょうどメグロと合併したころのバイクにB8というロードモデルがあって、よく売れました。でもその前のB7がとんでもないバイクで、今だから言いますけど、出荷したうちの半分は不良で戻って来るくらいよくなかったです。きゃしゃというか、弱々しいというか、とにかくあちこち壊れて、よく走るなって思うくらい(笑)。ところがB8からはすごくよくなって、売れすぎて足りないくらいだったんです。このB8でレースに出ようとしたのが当時カワサキ本社でモトクロス職場のメカの親分だった松尾勇さんと、カワサキオートバイ販売の社長だった高橋鉄郎さんでした。B8を元にモトクロッサーを作ったらMFJ主催の第1回モトクロス大会で1〜6位を独占したんですよ。このB8改が、たまたま余っていた赤い塗料が塗られたのが赤タンクの始まりです」

こうしてオフロードでの強さを強烈にアピールしたカワサキ。B8改はB8Mという名で市販され、大人気となった。服部もアマチュアながらB8Mを駆り、東北では敵なしとして知らぬ者はなかったという。

「そういえば今の菅生(※スポーツランド菅生:モトクロスコースがあり、全日本選手権も開催される)の前身となる仙台テクニカルハイランドができたときも、我々が呼ばれてコースのレイアウトを考えたりしたんです。最初はただの牧草地のような土地だったけども、そこを10人くらいで走ってね」

カワサキ B8M
人気を博したB8をベースにしてモトクロス仕様として販売されたB8M。タンクは赤く塗られ、“赤タンク”の愛称で親しまれた

こうしてメグロからカワサキへと時代の波に揺られながらも“東北に服部あり”とばかりにサービスマンとして販売店からの信頼を得て、その腕も確かなものになっていく。そしてこのころになると、原付をはじめとする小排気量モデルのラインナップも増え、スクータータイプのペットM50や50ccのM10、85ccのJ1、125ccのT8などをそろえたカワサキは、これら小型バイクの販売開拓先として自転車屋に目を付けた。

「そうした自転車屋のおやじさんを教育するのが私の仕事でね。修理というよりはもっと簡単な点検だとか、そういうことを教えて回ったわけですよ。宮城県内だけでも80店舗くらいはありましたが、どこもバイクのことはわからないような感じでしたから、大変でしたね。とくに『エンジンがかからない』と呼ばれて行ってみたらキルスイッチがオフだったりして(笑)。他にもクラッチを切らないとセルが回らないようにしたり、スタンド上げなけりゃ走らないようにしたり、そういう機能が付き始めたころだったこともあって、無知からくるトラブルがいっぱいあったんです。でも、うんと重宝がられました。販売店の人にとっては私が頼みだったからね。やりがいがありました。呼ばれた帰りにお酒もらったり、オシンコもらったりもして。技術屋というのはいいもんだなーと思いましたよ」

こうした現場での地道な苦労が、現在のカワサキへとつながっているのは間違いないだろう。

プロフィール・服部謙治

1941年生まれの67歳。目黒製作所を経て川崎重工業サービス課で東北6県のカワサキディーラーへのサービスを担当した。1977年に独立して服部カワサキショップを仙台市内に創業し、現在にいたる。




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