カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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ヨシムラ

当時を知っているからこそわかることがある。混沌とした現代にこそ、我々は忘れ去られつつあるカワサキ創成期のあらゆるエピソードを今に伝え、その想いを受け止めるべきではないだろうか。今回は、メグロからカワサキに移り変わるなか、静岡県に販売網を築いていった相良隆夫氏が、その過程を語る。

西の重工業メーカー、東海に舞い降りる

かつてカワサキは、単車事業としては他社に比べて知名度の低いメーカーだった。二輪メーカーに小型エンジンを供給することから単車事業をスタートさせたカワサキは、昭和35年にメグロと業務提携を結ぶも、二輪メーカーの草分け的存在であったメグロのほうが、一般ユーザーのみならず販売店に対する知名度は数段高かった。

「当時、カワサキから来たって販売店にあいさつ回りしても、『おぉ、川崎か…、よくあんな遠くから来たもんだ』と、神奈川県の川崎市に間違えられることも多かったんだから」

メグロからカワサキを渡り歩いてきた相良隆夫は、かつて静岡で販売網拡大に努めていた時代を振り返る。また、メグロの知名度は高かったとはいえ、昭和30年代後半、メグロと業務提携を結んだ特約店と呼ばれる販売店は静岡に一店舗もなかった。その地へ単身乗りこんで、カワサキとメグロの販売網を築いていったのが相良である。

相良は昭和34年、メグロに組立工として入社する。

「バイクっていったって、当時は簡単に乗れるもんじゃなかったからね。でもなにしろ僕はバイクが好きでね。だったらメーカーに入れば乗れるだろうと思って、ちょうど叔父がメグロの重役だったので、お願いして入社したんですよ。試作課というエンジンなんかを試作するような部署に所属したんだけど、実際は車両の組み立てにたずさわっていましたね」

入社後メグロから相良にバイクが貸し出され、自宅のあった神奈川から勤務地の東京まで、そのバイクで通勤した。

「メグロというのは、ずいぶんと待遇がよくてね。1カ月の給料が1万2千円くらいだったんだけど、その他に報奨金としてプラス1万くらい支給されるんですよ。残業のときなんか、課長が夜食代として一人200円ずつ配ってくれてね。でも会社からは、その夜食代とは別に夜食も出るんですよ」

会社近くの繁華街では、メグロの社員バッジを付けているだけで、“ツケ”で飲ませてくれる飲食店も多かったという。実用車として高い評価を得ていたメグロの絶頂期だ。しかし状況は一転する。メグロは昭和35年にカワサキと業務提携を結ぶと、昭和37年にはカワサキの系列会社となり、昭和39年にはカワサキに吸収されることとなる。相良がメグロに入社して間もないころの変動だった。

「メグロとカワサキでは会社の規模が全然違う。徐々にメグロにカワサキの資本が入ってきたんですよ。そのうち会社では争議が始まってね。メグロの労働組合っていうのは全国的に大規模な労働組合で、その労働組合に対立する第二組合が社内でできたの。メグロがカワサキに吸収されることに対して意見が対立して、ぶつかり合ってね」

まだ入社後間もなかった相良は前者の労働組合、第一組合に属することとなる。

「僕は第一組合だったんで、オルグ※1にも参加しました。全国オルグとか関西オルグにも…。でも、その活動内容に疑問を抱くようになって、このままオルグに参加していてはいけないと思い始めていたんです。ちょうどそのタイミングで、叔父が『お前、そんなところにいちゃダメだ! 山梨に来い!』と怒って、山梨にあった甲信メグロに僕を転勤させたんです」

カワサキがメグロを吸収していく渦中での出来事だった。

※1 オルグ:organizeまたはorganizerの略。とくに左派系の組織を作ったり拡大する行為や勧誘、それをする人を指す

メグロ総代理店「甲信メグロ」店舗前

メグロの総代理店、甲信メグロ(後の甲信カワサキメグロ)の社屋の前で、メグロSGを並べ、営業に出る準備を整える。相良は甲信カワサキメグロに3年ほど勤務し、その後静岡支店を立ち上げる

「車で営業に行きたいだと? とんでもないことを言うな!」と、部長に怒鳴られてね

甲信メグロとは山梨と長野を販売エリアとしたメグロの総代理店で、カワサキがメグロを吸収した後は、甲信カワサキメグロと社名を改め、カワサキとメグロの車両販売を事業内容としていた。甲府に本社をおき、相良はその本社に勤務することとなる。相良の所属は、総代理店が一般ユーザーに車両を直接販売する直売部だった。一方、同じ甲信メグロ内には、販売店に車両を卸すことを業務とする業販部もあった。

「直売部と業販部は、しょっちゅうケンカだったね。こっちが一般ユーザーにバイクを売るってことは、バイク屋のお客を減らすってことだから。そりゃ業販部も怒るわけだよ。だからって直売部は一般ユーザーにバイクを売らないわけにはいかない。こっちにもバイクを売らなければならない宿命があるから」

技術職としてメグロに入社した相良は、甲信メグロに転勤したのを境に営業を主体とした業務にたずさわるようになる。

「山梨で主に販売していたのはメグロSGでした。営業もこれで回っていました。なにせ部長は『バイク屋がバイクに乗って営業しないでどうすんだ!』って考えの人だったから。冬に、寒いからクルマで回りたいって言ったら『とんでもないこと言うな!』って怒鳴られたくらいですよ」

カワサキがメグロを吸収した後も、しばらくは一般ユーザーのメグロに対する評価は高く、甲信カワサキメグロ(前、甲信カワサキ)にオーダーの問い合わせもあった。

「250ccのバイクが欲しいからモノを見せてくれと、山奥の集落から問い合わせがあってね。メグロSGに乗って出かけたのはいいんだけど、その集落の近くまで来たら、集落の方からからホンダのバイクが戻ってくるんですよ。次いでヤマハも戻ってきた。なんだ、他のメーカーも呼んだのか…って。まぁ、いいかと、僕は集落に入っていった。そしたら集落の人たちがこっちを見ながら拍手しているんだよ。なんてことはない、ホンダとかヤマハは集落に続くぬかるんだ山道を登ることができなかったんだ。そのとき集落の人に言われたのは、ここまで上がってきたのはメグロだけだって。それでメグロを買ってもらった覚えがある。メグロは登坂力があってね、当時営林署などもメグロを使っていたくらいだから」

やがて甲信カワサキメグロは、さらに販売網を広げるべく、静岡に進出する。甲信カワサキメグロ静岡支店の設立である。その支店長代理を命じられたのが相良だった。支店とはいえ従業員は相良一人で、トラックにメグロSG1台と家財道具一式を積んでの単身静岡入りだった。静岡支店の販売対象エリアは浜松から沼津まで。支店設立当初、この広範囲を相良1人で担当した。

甲信カワサキメグロ静岡支店立ち上げ

相良は、甲信カワサキメグロ静岡支店立ち上げのため、トラック1台で単身静岡に乗りこむ。社屋隣の会社の社員に電話番をお願いし、相良は飛び込みで販売店をまわった。その約3年後、さらに相良は沼津営業所を立ち上げる

「静岡にもかつてメグロの特約店があったんだけど、僕が静岡に行ったころには、すでに店じまいをしていてね。そのときはメグロの特約店はなかった。でも、その店で工場長をやっていた方が新たに販売店を経営していたので、今度カワサキメグロを扱ってくださいってお願いしたんです。うれしいことに率先してやっていただけたんですよ。ただ他の販売店は、最初あまり反応がよくなかった。だって、ほとんどの人がカワサキを知らないんだから。とくに静岡はホンダ、ヤマハ、スズキのおひざ元だからね。それに食い込んでいくのは大変でしたよ」

先発メーカー相手に相良が持ち込んだ主な販売車両はB8とメグロSGだった。ただ、販売店に車両を届けて店頭の最前列に並べても、すぐに後方に移動させられてしまうという状況だった。そこで相良は何とかカワサキメグロの知名度を上げようと、ある策を思いつく。

「ヘリコプターですよ。カワサキの車両は当時、川崎航空機工業が作っていたからね。カワサキのヘリコプターを飛ばしてもらって空からチラシをまいたんだよ。静岡支店の横の空き地にヘリコプターを下ろして、給油をしてね。そこから僕もヘリコプターに乗り込んで浜松や掛川、そして沼津といったように飛びまわったよ」

ヘリコプターでチラシをまくことが許されていた時代、カワサキの事業を活かした販売活動ともいえる。

「どうしても静岡にカワサキを根付かせたいと。カワサキを無名扱いした販売店よ、今に見てろよと。黙っていてもカワサキが売れるようになるまでがんばるぞと。もう、その一心だったよ」

この策がどれだけの成果を上げたかは定かでない。ただ、カワサキを絶対に普及させるという強い意志に加え、B8のモトクロスでの好成績がキッカケとなり、相良は静岡での販売網を築きあげていった。

カワサキ沼津販売

甲信カワサキメグロ静岡支店沼津営業所を引き払うと、相良は独立しカワサキの販売店を開業する。写真が開業当時の店舗で、現在のカワサキ プラザ沼津の前身である

プロフィール・相良隆夫

昭和16年生まれ。目黒製作所に入社後、川崎航空機工業(現、川崎重工業)が目黒製作所を吸収する渦中に甲信メグロに転勤する。その後、静岡の販売網拡大のため、甲信カワサキメグロ静岡支店、そしてその沼津営業所を立ち上げる。昭和46年に独立し、販売店(現カワサキ プラザ沼津)を開業




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