カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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ヨシムラ

今でこそ“KAWASAKI”の知名度は世界的なものになったが、かっては会社存続の危機に見まわれた時期があった。そんな時期、そのピンチを救ったバイク、それがB8だ。

B8

B8

今回の登場人物

松本博之
松本博之

1934年1月18日生、兵庫県神戸出身。20歳のとき、川崎航空機工業(現・川崎重工業)入社。カワサキがバイクを作り始めたときからを知る貴重な存在。技術屋の見本ともいわれ、エンジン開発の重鎮。そのキャリアは他を圧倒

百合草三佐雄
百合草三佐雄

1935年3月2日生、愛知県出身。松本氏同様、川崎航空機工業(現・川崎重工業)入社後、カワサキ一筋の人生を送る。アメリカでの仕事11年。レース監督としてヨーロッパ各国も転戦したグローバル派

125ccが群雄割拠。その市場でB8は輝いた

カワサキイチバン
編集部

カワサキにとって偉大な功績を残したB8ですが、松本さんはそれ以前はどんな車種を担当していたんですか?

松本博之
松本

メイハツKB1型とか2型とか呼ばれていた60ccのエンジンです。1954年ですね。

百合草三佐雄
百合草

明発というのはカワサキの母体となった会社ですが、エンジンは川崎航空機(のちに財閥解体で川崎機械工業になる)で作り、メイハツの名前で市場に送りこんでいたんです。そう、最初はエンジンだけを売る供給メーカーだったんです。

カワサキイチバン
編集部

すると、松本さんが担当したエンジンを搭載したバイクというのは?

松本博之
松本

社内呼称KB-5と呼ばれていたメイハツ125ccですね。1955年でしたかね。その後、同じ125ccでスーパーとかエースとか、ローズなんかのエンジンを担当していました」

カワサキイチバン
編集部

ほとんど125ccだった?

百合草三佐雄
百合草

そうです。まぁ当時は原付二種ってね。それ以上の排気量のバイクはあまり売れなかったですね。

カワサキイチバン
編集部

確かにこの時代はたくさんのメーカーが125ccを作っていましたよね。まさに群雄割拠、百花撩乱って感じでしたね。

百合草三佐雄
百合草

それと、ちょうどこのころ、明発から川崎明発へと社名が変わった時代でもあるんですが、いずれともかく明発から、そして川崎明発が発売したバイクのエンジンは松本さんがすべて設計にたずさわっていたんです。正確に言うと、この時代のころは明発でフレームを作り、エンジンは川崎航空機で作っていたんです。

松本博之
松本

私のみっともないエンジンを使っていただいて(笑)。

カワサキイチバン
編集部

そして、それは125ccのカワサキB6、そして1961年に登場したB7へとつながっていったわけですね。メグロを傘下に入れた時代で、それに加えて川崎明発からカワサキとして社名も変わったときですね。そして、B8のデビューを迎えたわけですね?

松本博之
松本

そうですね。ただ、前述のとおり、ずっと我々はエンジンの供給だけでしたから、あまり市場調査も何もやってなかったんですよ。ただ、明発の販売網を見たときにその多くは都会で売ってると思っていたんです。ところが、明発は東北、北海道でとくに人気があるというので、東北、北海道へ行って、まぁ、東北はちょろっとしか行ってませんが、北海道を1ヶ月かけて回ってみたんです。当時、新婚ということもあり、これから先、バイクが売れなかったら、生活どうしようと考えながらやってました。だから、真剣そのものでした。

カワサキイチバン
編集部

新婚で奥さんは?

松本博之
松本

置いてきぼりで(笑)。それはそうと北海道へ行ったら、なんとまともに走れるような道路がないんですよ。ジャリ道ばっかりで(笑)。しかも、皆さん後ろに荷物積んで走っている。実用車ですよ。もぉ、これはとんでもないと。全然方向の違うスポーツ指向のエンジンを今まで作っていたと気付いたんです。

カワサキイチバン
編集部

そこで、実用指向のエンジンを搭載した新型の125cc、B8を作ろうということになったわけですね。ところで、B8のベースになったエンジンは何だったのですか?

松本博之
松本

ないです。まるっきりのゼロからのスタートでしたね。

カワサキイチバン
編集部

そして1962年に完成したB8は、5,000台限定で生産されたんですね。ところが、アッという間に売り切れてしまった?

松本博之
松本

全然宣伝もしないのに、バックオーダーが来すぎて、「どないするんや?!」って(笑)。売れなかったら、やめようという覚悟もあったんですけどね。

百合草三佐雄
百合草

もともと川崎航空機のエンジンはみなさんから、いい評判をもらってまして。「壊れないよ」というイメージもあって、そういうのが口コミや何かで「やっぱりカワサキっていうのは技術を持っている会社」だというのがあったと思います。ただ、「商売するのがへたくそだ」とよく言われましたが(笑)。

1963 B8M

[B8M]赤タンクの愛称で当時、国内のモトクロスを席巻。ビーエイトとも、ビーハチとも呼ばれていたB8ベースの市販モトクロッサー。1963年登場

カワサキイチバン
編集部

ところで、お2人はいつ出会ったんですか?

百合草三佐雄
百合草

私は航空学科を出てて、飛行機をやりたくてね。それで、川崎航空機に入社したんです。ジェットエンジンをやりたくてね。そんなこともあって、学生時代には、川崎航空機にジェットエンジンの工場見学にも来たことがあるんです。そうしたら、設備からなにから全部きちっとしていて、ここは東洋一の工場だと痛感して…。ところが入社したらすぐに、オートバイをやれってことで、オートバイの部署に放り込まれたんです。「ちょっと、話が全然違う!!」って言ったんですけど、まずはオートバイでもうけてから飛行機をやるということで。新入社員は全員オートバイ開発をやらされたんです。私は設計で、そこで松本さんと出会ったんです。当時、松本さんとその上司と、125ccのツインの設計をまかされたんです。私はコネクティングロッドの強度とか、硬さとか一生懸命やりました(笑)。でも、やっぱりツインはうるさくて、「ムリだ」ということになり、B8の開発に集中しました。それと、ペットM5というモペットもやりました。




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