カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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当時を知っているからこそわかることがある。混沌とした現代だからこそ、我々は忘れ去られつつあるカワサキ創成期のあらゆるエピソードを伝え、その想いを受け止めるべきではないだろうか。今回は、カワサキ創成期に開発ライダーとして入社した松尾正雄氏が、当時体験したテスト内容をつづる。

わずか3人からの開発テストのスタート

「昔は、この辺りに鍛冶屋とか大工の職人さんが、たくさんおってな。あちこちでトンテンカンテンやっとるわけや。ワシなんか学校から帰ったら勉強もせんと、そんなん見に行ったりな。鍛冶屋に行ったら、火、起こしとるから、『おっちゃん、火、あたらしてなぁ』言うて、トンカチトンカチやるのを、よう見てたな」

幼少期から職人に囲まれて育った松尾正雄。自宅は、カワサキの二輪生産ラインが設備されている明石工場のすぐ近くに位置し、かつて周りにはカワサキの下請け工場も多く建てられていた。カワサキに入社したのは昭和35年で、難題ばかりを設計者に要求するあまり、“鬼の松正”と呼ばれた元開発ライダーである。

今も昔も、松尾は明石に住む。

「うちから500mくらい離れたところに、“どんどん工場”いう川重の工場があったんや。余った材料で弁当箱を作ったりする工場なんやけど、ワシら子どもの時分、その工場の塀を乗り越えてなかに入って、四角い鉄の切れっぱしを拾ってきてな。四隅曲げてゾウリの裏にくくりつけて、スパイク代わりにして野球をしてたんや。その時分ワシらの周りにスパイクなんてあらへんや。そやかて欲しい。どないしたら作れる、いうのがな、自然に小さいころに芽生えてたんかな。それに下請けの工場に行ったら職人さんと顔なじみになるし、いろんなこと教えてくれんねんな」

カワサキの工場や下請け工場に出入りしていた松尾は、カワサキの技術者とも顔見知りになっていく。そして、そのままモノ作りの道を選び、カワサキに入社したのかと思えば、少々事情が異なる。

「オートバイに乗るようになって、若い時分はヤンチャしとってな。毎晩明石を走っとったんや。そんな折、川重に勤めとった知り合いがな『松っちゃん、お前そんな毎晩ガソリン使こうて走ったって、一銭の金にもならへんやろがい。実はな、カワサキでオートバイ作るいう話があんねん。でな、設計者はおるにしてもな、テストライダーがおらへん。そのテストライダーを募集しとんねんけど、あんた行けへんか』言うわけよ。で、ワシも仕事探しとるわけや。そやから、オートバイに乗って給料もらえるんやったら、そんなええ話あるかいって、面接行ったわけや」

バイクに関していえば、かつて発動機のみ生産したカワサキが昭和34年、バイク一貫生産に向けた第一歩として単車生産準備室※1を設置。翌年には単車部となり、昭和36年にはカワサキのオリジナルバイク第一号機としてカワサキB7、カワサキペットM5、カワサキ125ニューエースの発売を開始する。松尾のカワサキ入社は、その渦中での出来事で、同じく開発ライダーとして松尾の他に2人が入社した。

※1 単車生産準備室:カワサキがバイクの車体製造準備のために新設した新しいライン。計画・生産技術・資材・設計の4班で構成された

「自分のバイクで勉強しとかんかい」と言われよってな

「ワシが入社した時分は、明石でエンジン作って、それをメイハツ※2に送りよって、他で車体を組みよったわけ。そやから入社したてのころは、カワサキでテスト走行なんてしよれへんかってな。まだ単車生産準備室のころで、ワシら開発ライダーとして入社してもやな、仕事あらへんから、『何しまんねや』と係長に聞いたわけや。そしたら『自分のオートバイでも乗って勉強でもしとかんかい』言われてな。それに事務所もあらへん。そんでエンジンの運転場や。その一角をキレイに掃除してペンキぬったり仕切り作ったしてやな。古い机もろうてきて並べて事務所を作っていったんや」

※2 メイハツ:明発工業の登録商標。明発工業はカワサキ製エンジンの発売元で、川崎機械明石工場製発動機を意味した

カワサキがエンジンから車体の組み立てまでの一貫生産を始めたのは、松尾の入社から半年ほど過ぎた昭和35年11月からだった。松尾も開発ライダーとして、カワサキ初の完全オリジナル車両の開発に携わった。

公道を利用した開発テストで、当時このテスト方法は、カワサキだけでなく他社でも当たり前のことだった。走行距離は1日約100km。東は滋賀県草津市、北は京都府福知山市、西は岡山県岡山市を往復した。舗装路と未舗装路を半々くらい走行し、帰社後は報告書を提出し、問題があれば、それを指摘した。

「ニューエースいう奴やったかな…、もう、乗ってたら尻が痛とうてな、耐久テスト行くときも座布団敷いて走ったくらいのオートバイやったんや。2人乗り試そう思うても、人がおらんから、後ろに鉛積んで走りよったこともあったけどな」

[証言者・松尾正雄]開発テストの現場
松尾がカワサキに入社した当時の開発テストライダーは3人。開発テストの際も、人員が限られていたため、タンデム走行のテストの際には、リヤに鉛を積んでテストしたこともあった

開発テストでは、単にドライバビリティを検査するだけでなく、ときには設計や装着部品に問題がないかなど、設計の範ちゅうにも関与した。

「寒冷地テストいうて、1年のうちで2月が一番気温が下がるいうのでな、北海道の旭川にオートバイを持っていってテストするわけや。夜中にバッテリーを冷やしておいて、翌朝ちゃんと機能するか試すねん。開発から2人、バッテリーメーカーとダイナモメーカーから1人ずつ来てくれたんかな。それ、10日くらいおったんちゃうかな。そのとき小樽でな、オートバイ屋のオヤジが、店の近くの雪が積もっているゴッツイ急坂を上りきったら、そのオートバイ買うわ言うてきたことがあってな。オートバイはM5いう奴や。タイヤに鎖巻いて必死に上ったがな。そんで何台か買うてくれたと思うわ」

[証言者・松尾正雄]開発テストの現場
北海道での寒冷地テストの際、バイクショップに即され、雪が積もる小樽の急坂をカワサキペットM5で上る松尾。この後、そのバイクショップにカワサキペットM5を納品することになる

高地テストと称して、空気の薄い条件での走行性能を検証するために、長野県乗鞍岳でテストしたこともあった。1週間ほど泊まり込み、高地でのキャブレターのセッティングを検証。海外の高地へ向けた輸出車は、このテストで得た仕様に変更された。

往復約100kmの開発テストも、ときには東海エリアまで足をのばし、長距離テストも行なわれた。

「その道中な、静岡あたりだったかいな、よそのメーカーの公道テストに出くわしてな。ほんだら、よそは革のスーツを着てテストしとるわけや。ワシらは布の作業着や。よそはワシらより先にバイク出しとったから、着るもんもそろってんねん。そやからワシらも会社に言うて、革のスーツ用意してもろうてんけどな」

このオッサン来たらほんまかなわんやがい

昭和30年後半、先発メーカーが国内市場を制覇しており、大小含め80社ほどもあったメーカーは次々に二輪事業から撤退していった。カワサキも一時、二輪事業での業績が悪化し、事業を継続か中止かの窮地に立たされることになる。

「いったん、開発テストを中断したことがあってな。そのときワシ、産業用エンジンを担当しよるようになってな。ポルシェの空冷エンジンを入れてきて、それを新しい軸にしてやっていこうとなったわけや。そのエンジンに手を加えて、耕運機やトラックに積んだりしてやな。そやけどウチは完成品までやらんで、他社にエンジンを送って、そこでトラックに積んで売ってもらっておった」

二輪事業の存続に対して議論が沸騰していた昭和38年、兵庫県青野ヶ原で開催されたMFJ兵庫県支部主催による第1回モロクロス大会の125cc級で、カワサキはB8をもってして1位から6位まで独占。この戦績をキッカケの一つとして、カワサキ車の名声は高まっていった。

このころになると、開発ライダーは20名ほどに増えていた。そして、開発グループは開発担当と製造担当の2グループに分かれ、ライダーもそれぞれに半々に分かれ、松尾は製造グループに属した。製造グループとは、後の品質保証部に当たる部署で、開発グループで完成させた車両を、量産に向けて再度テストを行なうことを業務の主とするグループである。テストでは走行テストに加え、生産ラインに流れる車両を抜き取り、シャーシダイナモで動力性能を検査したり、車両を分解してメカニズムのチェックなどをするなどした。

「悪い言葉でいうたら、設計が作ったオートバイのあらさがしや(笑)。それで目ェ光らせてな、開発で『こりゃOK!』と出した奴でも、品質保証部で止めたこともナンボもあるもん。そんで徹夜で部品の改良をしてやな、量産してったこともあるわ。そやからワシも真剣や。入社時分の開発テストもそうやったけど、『もう、このオッサン来たらほんまかなわんやがい』言われてやな。相手が誰だろうと、ダメ出しゴッツウ言うてやな。そんでもワシ、言う限りは、その後もケツ拭きまでしよるからな」

部品に不具合があれば、各パーツメーカーまで出向き、先方の担当者と一緒になって調べた。

「そやからいろいろ勉強になりよったわ。子どもの時分からワシ、自分でモノ作りよったからな。量産前の検査いうことで気ィつかったけどな、楽しかったわ。川重も部品メーカーも、ええ集団やった。ワシみたいな人間が言いたいこと言うても話を聞いてくれて、ほんま感謝やな」

72歳まで現役をつとめた松尾は、現在では、自宅近所のトラクターや水槽に不具合があると、「ちょっと見せてみ」と言っては、近所づきあいで修理している。

「去年、地元で神輿作りよったんやけどな。そんときオートバイのテールランプに使うLEDを部品メーカーからもろうてきてな、神輿に電飾しよったんや。それまでは豆電球やったんやけど、LEDにしよったらゴッツウ派手になったわ(笑)」

プロフィール・松尾正雄

昭和10年2月24日生まれ・兵庫県明石市在住。昭和35年、川崎航空機工業(現、川崎重工業)入社。開発ライダーを経て、品質保証部設立後は、車両完成検査にたずさわる。その過程において、バイクに関するさまざまな特許を取得し、平成9年には勲章・瑞寶賞を受勲。兵庫県からは技能顕功賞などを授与される。




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