カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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ヨシムラ

1963 メイハツ B8

[1963 B8]カワサキが車両の設計・開発・製造まで、すべてを一貫して担当した最初のモデル。まさにそれまでのBシリーズとは一線を画すモデルである

5,000台、限定で生産を開始する!

B6、B7と同じく、当時主流となりつつあった2サイクル、125cc単気筒エンジンの実用車、という松本案に対して、山本の反応は意外なものだった。
「5000台だけの限定生産だ。金型などいっさい起こすな」と苦しそうに言うのである。川航経営陣はオートバイ事業からの撤退をほぼ決めており、ニューモデル生産のための投資など、山本にも許されない状況だったのである。

かくて松本のB8は、61年春、明石工場で5,000台だけ作られ、ニューモデルとして発表されることもなく広告宣伝なんぞ全然ないまま、希望する販売店だけに手渡されたのだった。ところがそれは、彼のねらいどおりの“悪路に強い実用車”、すなわちそのころの日本の道を走るに最適のバイクとしてきわめて好評で、5,000台はたちまち売り切れ、その後も商品はないのにバックオーダーが山積していく一方だった。川航経営陣にしてみれば意外千万な展開である。彼らは、日本能率協会(日能)に、オートバイ事業の将来性に関する調査、答申を依頼した。再び川航経営陣にとって意外なことに、日能はオートバイ事業の将来性を強調し、その継続と拡大を求めたのだった。経営陣はそれを受け入れる。かくて62年、川航はB8“発売”を正式決定したのであった。今も東京の芝公園近くにある日能が、カワサキ存続の隠れた恩人であることも、記憶しておくべきだろう。

一方では、工場の有志たちが、このB8をモトクロス・レーサーに改造する作業を、こっそりと勤務時間外に進めていた。低速で強い実用車エンジンはモトクロスに持ってこいだった。金型を許されないまま、当時の125ccバイクにはめずらしいパイプフレームとせざるをえなかったのもモトクロス向きだった。まったく何が幸いするかわからぬものである。61年秋、地元兵庫県青野ヶ原で行なわれたレースで、B8は1位から6位まで独占と完全勝利で緒戦をかざった。まだモトクロスの認知度は低かったが、それでもこれは業界で大きな話題となり、関係従業員たちの士気高揚にも役だったのである。

1964 メイハツ B8T

[1964 B8T]ホワイトリボンの入ったタイヤを装着するなど、よりおしゃれな色合いが強くなったB8T。圧縮比を低くするなどメカニカルな部分にも手が入っている

救世主B8

間もなくアップ・マフラーのB8Tが導入された。青野ヶ原に続いてB8のモトクロス場せっけんは続いており、それを意識してのスポーツイメージで、その斬新なデザイン、カラーも好評だった。

当時の私は、神戸製作所の教育課で新入社員教育など担当していたのだが、62年春、新入社員の一人が怒鳴り込んで来た。彼はB8Tが欲しくてたまらず、国内販売担当の川崎自動車販売(株)(通称ジハン、オートバイ販売会社をなぜジハンと称したのか今では不明)へ行ったのだが、「冗談じゃない。新入社員なんかに回す分は1台もないよ」と断られたのである。新入社員だろうが誰だろうがお客だ。私はすぐジハンにかけ合った。だが確かに在庫皆無、入荷までしばらくかかり、しかも全国各地でお客が待っている状態だった。あちこち問い合わせた挙げ句、兵庫県の山奥、生野町の販売店に1台だけあるのを発見し、そこまで彼に同行して行って売ってもらったものである。販売店は、「なにもこんな田舎まで来て正規の値段を払わんでも、メーカーの従業員なら工場から直接原価で買うたらええのに」といぶかっていたが、それほどの人気だったのである。ちなみにこの男、山下健悟が、後年、“第三話”の主人公百合草三佐雄のジェット・エンジン事業部の後継者として、取締役事業部長になるのも何かの因縁だろう。

日本初の高速道路名神が、63年に一部、65年に全線開通した。150cc以上あればバイクでも名神を走れたから、それに合わせて150ccのB8Sが登場した。私もこれに乗り、名神を走って鈴鹿まで、何度かレース見物に出かけた記憶がある。

66年の打ち切りまでに、これら3機種で4万台近くを生産、販売した。月産5万台を誇ったスーパーカブに比べればものの数でもないが、5000台の限定生産で始まってこの台数を売り上げ、これでなんとかカワサキはオートバイメーカーとして存続することができたのであった。

種子島 経

1960年、東京大学法学部卒。川崎航空機工業(現・川崎重工業)に入社。1966年からアメリカにわたり、Z1の開発にたずさわるとともに市場開拓に尽力した。当時の苦労話をまとめた書籍をはじめ、数冊を執筆している




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