カワサキ創成期のエピソード

カワサキ=川崎重工業株式会社は、今でこそ世界に名だたる巨大カンパニーだが、その創成期には当時ならではのストーリーがある。この企画は、それらストーリーの当事者たちに直接話しを伺った回顧録である。

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ヨシムラ

サイクルワールド誌

当時最大のオートバイ雑誌だった“サイクルワールド”のテスト・リポートはそのモデルの販売を左右する力があった。実はW1の失敗も、そのリポートが極めて悪かったこともあったのである。7月初旬のある日、私はその創業者社長たるジョー・パークハーストと名編集長として知られたアイバン・ウェーガーの2人を日本料理屋へ招待して、サムライ・テストをやってくれるよう頼んだ。彼らももちろんテキサス・テストの噂は重々承知で興味津々だった。だが、ジョーはさすがに抜け目なく条件を付けて来た。
「世界初、独占テストであること。それ以前に、あるいは同じ時期に、他の雑誌が取り上げるのならうちはやらないよ」

サラリーマンの常識からするなら、「世界初となれば国内営業のジハンにも根回ししなければならないし、少し時間をください」などかわしておいて東京に問い合わせるべきところだろう。だが、そんなことではアメリカ・ビジネスが成り立たないことは、半年ちょっとの経験でわかっていた。私は独断でそれをオーケーし、話はまとまったのだった。テストマシンの準備は、テキサス・テストから帰国して間もない百合草がやってくれることになった。

9月初旬、レンタカーしたピックアップトラックをロサンゼルス空港の日本航空貨物ターミナルに乗り付け、“サイクルワールド”テスト用のサムライを積み込んでロングビーチの販売店へ運んだ。何しろ会社はまだないのだし、他に誰もいないのだから、こんなことまで私がやるしかないのだ。私の報告書もあって、川航はカリフォルニアで11月から販売開始することを決めていた。私としても張り切らざるを得ないではないか。百合草がマシンのセットアップ、調整などについて詳細な英語の指示書を付けてくれていた。だが、不器用極まる私が、張り切りついでに自分で手を付けたのでは、せっかくのマシンを破壊する恐れがあるので、親しい販売店に頼んだのである。彼らも今や有名なテキサス・テストのマシンを早く見たいし乗りたいから、二つ返事で、アメリカ人にはめずらしく工賃を請求することもせずに引き受けてくれた。組み上げて調整を済ませると、店の主人自身が早速ロングビーチ周辺を乗り回し、「これはYDS3より全然速い!」と太鼓判を押したうえで“サイクルワールド”へ運び込んでくれたのだった。

彼は永年トライアンフとヤマハを売っていて、YDS3のことは熟知していたのである。“サイクルワールド”テストは、ロサンゼルスからサンディエゴへ寄った“カールスバッド”レース場で行われた。そして“サムライ”で表紙を飾った1966年11月発売の12月号は、我々のカリフォルニア販売開始に合わせて書店に並んだのだから、まさに絶妙のタイミングだった。私がジョー、アイバンの2人と話した7月の時点では、カリフォルニアで販売するかどうかもまだ正式には未定だったのだから、これは偶然の幸運としか言いようもない。同誌ではまず、これが世界初のロータリーディスクバルブ装着の量産車であることを紹介し、その技術上のメリットを詳しく紹介した。

「新奇性を好むらしいアメリカ人」を意識した松本博之のねらい的中である。次いで、彼が苦心したエンジンに関する諸々の心配りを逐一説明して激賞、続いて車体関係についても、「サスペンション、ブレーキなど極めて優れており、操縦性は最高」と称える。また、「究極のツーリング2サイクル・デザイン」とし、「サムライはあらゆる点でいい(fine)モーターサイクルだ」と結んでいる。同誌が250cc車を“ツーリングマシン”としているのも当時の市場を反映していて興味深い。

テスト・データでは、最高速:106マイル(170km/h)、ゼロヨン(1/4マイル)加速:15・4秒、(1/8マイル):8・6秒とし、「1/4マイルではメーカーが主張する15.1は出なかった。これは我々のライダーの体重が重く、我々のルール通り燃料タンク半分のガソリンを入れていたからで、ガソリンを減らし、もっと軽いライダーが乗れば、15.1は十分に実現可能だ」と付け加えている。

「これらの性能は、排気量に関係なく、あらゆる量産車中ベストだ」と断言してくれてもいる。

“サイクルワールド”は、またサムライの写真を数多く掲載して、そのスタイリングが素晴らしく、仕上げ、カラーも申し分ない、としている。辛口で知られる同誌として、これは異例のベタ褒めぶりであり、それだけに、サムライへの注目度は一段と高まって、我々の販売開始を助けてくれたのだった。

一方、ご用済みとなったそのテスト車両で、私はプロダクション・クラス・レースを始めていた。何度も言うけど一文無しだし、私自身は販売開始の準備で超多忙だから、カリフォルニア一、とされる優秀なレーシング・メカニックを見込んで彼にマシンと部品を提供し、ライダー契約など一切を彼に任せたのである。レースの賞金は全部彼のものにする約束だった。彼はカリフォルニア全域から遠くラスベガスにまで転戦し、そのほとんどすべてで優勝した。たった1台だけの赤いサムライが、プロダクション・クラスだから、並み居る500ccや900ccの重量車群を抑えて勝つのは、アメリカ人受けしたようで、その戦績は週間オートバイ新聞で西部諸州に毎週詳しく報道され「サムライ速し」の風評をますます高めてくれたのだった。

かくて1966年11月、American Kawasaki Motorcycle Corp.は、アメリカ・ホンダの本社所在地ガーデナで、カリフォルニア州での販売を開始した。メーカーたる川航として初のオートバイ直販である。私が訪問、面接して高い評価を付けた店から順番に販売店契約をしていった。
みんなサムライ売りたさに手を挙げてくれたのである。彼らは、前払いの小切手と引き替えに出荷指示書を受け取り、トラックをロングビーチの倉庫へ乗り付けて、サムライ以下のバイクを積み込み、それぞれの店頭でただちに販売に取りかかった。
彼らは、契約条件に従ってサムライ以外のB8やJ1なども仕入れ、仕入れた車両はなんとかはいてくれたのだが、2台目、3台目のいわゆるリピート・オーダーが入るのは、やはりサムライだけなのだった。

松本の手探りで始まったサムライは、かくてアメリカ市場斬り込み隊長の役割をはたしてくれたのである。もう一度言うけれど、サムライなかりせばカリフォルニアの販売網はできず、カリフォルニアなしにはカワサキはアメリカに上陸することもできなかった。そしてアメリカ市場なしには今日のカワサキはありえない。まことに、斬り込み隊長サムライの歴史的意義は大きい。

そしてまた、テキサスでのサムライ・テストの噂が多くの販売店およびお客の目をカワサキに向けてくれたのであり、このテストも歴史的なのだが、そのしだいは次の“第3話”で詳しく語ることとしよう。

種子島 経

1960年、東京大学法学部卒。川崎航空機工業(現・川崎重工業)に入社。1966年からアメリカにわたり、Z1の開発にたずさわるとともに市場開拓に尽力した。当時の苦労話をまとめた書籍をはじめ、数冊を執筆している




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