ページを共有

ヨシムラ

ご存知の方も多いかと思うけれど、今年はカワサキが世界に誇る名車Z1の誕生40周年にあたる。それに合わせて“Z1誕生40周年祭”が7月の6日(金)から8日(日)にかけてドイツにて開催されることが決定した。ドイツのZバイクオーナーズクラブが中心となり、全欧のZ1クラブがこのイベント出席のために国内での各種ミーティングを中止して休暇もお金も温存する決議が次々と出ている状況だ。まさに今世紀最大のZイベントになることは間違いないだろう。そして、このイベントの仕掛人の一人で、『Z1-BOOK』の著者として知られているミッキー・ヘッセ氏が「Z1を生産した日本からも、ぜひ多くのZ1フリークに参加してほしい。本気でZ1の誕生40周年を3日3晩に渡って祝うつもりなんだ。一人でも多くの日本のZ1乗りがこのミーティングに参加して、世界中のZ1乗りたちとの“絆”を結んでもらいたい」と呼びかけている。

1972-2012 KAWASAI Z1 40 YEARS

昔作られたZ1のほぼ半分がある欧州。その欧州で開かれるZ1の40周年記念祭。構想数年、打ち合わせの数百回(?)、欧州のZ1関係者の主だった人間たちが集まるはずだ

今回は、ミッキー氏の経験をふまえていまだ国内でも人気が衰えない“Z1とはいかなる存在か”を改めて掘り下げたいと思う。歴史的な背景に目を向ければ、Z1が製造された当時の日本では、750cc以上の大型バイクを国内で販売することができなかった。大型免許も事実上制限され、些細な改造も許されていなかった。ここ20年くらいでそれらの呪縛が次々と解かれたが、40年前の状況は旧共産国の20年前、たとえるならチェコスロバキア並みだったといえる。いずれも、たとえお金があっても“国内では買えない”というのが似たり寄ったりだったのだ。Z1は当時の日本では輸出専用車で、旧共産圏の外貨獲得のためのような“西側向け輸出専用品” の白物電化製品とまったく同じ発想だった。チェコスロバキア人も日本人も、自国産の“よりよいモノ”を国内では手には入れられず、無理に手に入れても国内のメーカー保証も修理も正式には受けられなかったのだ。

そんなわけで、Z1に関する限りライダーとしては西洋人が大先輩で、経験もタマ数も、欧(西欧)米が圧倒してきたという、まるで“日本製ではないかのような”不思議さがある特異なバイクだといえる。今では日本でもリッターバイクの国内販売は当たり前で、Z1のタマ数も劇的に増えてアメリカや欧州からの中古車逆輸入によって残存Z1の3割近くが日本にあるという統計もあるとか。数にすれば製造当時の日本では公式には“0”だったモノが、3万近くにも膨れ上がったことになる。そのなかでも、アメリカの広大な草地や砂漠のような場所に使い捨てにされて雨ざらし状態だったZ1たちを、ドイツ人を中心とした欧州のZ1愛好家たちがコンテナに詰めて引き取り、膨大な時間と少なからぬお金、そして愛情を注いでくれたおかげで、当時にZ1の数倍は作られたはずのH社のナナハンなどに比べて、ポルシェ並に高い残存率を示していることに想いをはせてみてほしい。結果的に彼らが理不尽な時代に生きざる得なかった日本人ライダーたちにそのバトンをつないでくれたのだから。

そんなバトンをつないだうちの一人がミッキー氏だ。彼によるとバイクのおもしろさは、乗って、いじって、愛でて、眺めてと多彩だけれども、それらで終わらない大切なもの、“人との出会い”を与えてくれるところにあるという。

「いろいろなバイクを知るのもおもしろいんだけれども、数多く見ているうちに、段々とウォッチには飽きてくる。そしてその乗り手たちへと関心は移っていくんだ。今の出会いが昔の出会いになる前に、さらなる出会いが重なっていって、未来への出会いに気持ちはいつもワクワクしていられる。それが“Z1というバイクを持った者の宿命”と知るのにそんなに時間はかからなかった。そして、人との出会いが今となっては、おもしろさの一つではなく、“すべて”に近い。もしドイツ人の僕が親父から与えられたBMWのバイクに乗り続けていたとしたら、日本や日本人たちと縁ができたとは思えない。日本のことも、日本人と知り合うことも、日本に行くことも、ましてやカワサキのZ1の本を書くなんて“絵空事以上”に現実感の乏しいことだったはずだ」

この後、“出会い”の具体例として語られた内容は、まさに世界を駆け巡ってきたミッキー氏ならではのエピソードであった。

「ここ4週間ほど出先で居候しているんだけど、そこの旦那とは80年代終わりごろのパキスタンとインドの国境沿いで知り合ったんだよ。互いの目的は違っても放浪資金稼ぎのために欧州から中古車を仕入れて、その辺りの隣国に持っていって売ったりしていた。当時のその辺りの国境はバイヤーにとっての難所で、法外な関税や罰金なんかを吹っかけてきて大変だったんだ。そこで、欧米人同士助け合うんだけれども、お互いに相手を“うさんくさいう奴”と考えるんだよね、自分のことは棚に上げて(笑)。ジャングルを走破したり、情報交換なんかは一緒にするんだけれども、お金を手にしたら『バイバイ、またね』な感じだった。でも、彼と一緒のときにどこかの山道で暗くなってしまい、じっと朝を待っていた方が安全なときがあったんだ。満天の星空の下で焚き火しながらいろいろな話をする機会があって、そのとき彼がZ1乗りだと知ったんだよ。アジアでは、手痛い目にたまに遭ったんだけれども、現地人より欧米人にたち悪い連中がいて、彼にもそんな経験があったんだろうね。だから最初は互いに距離を詰めたくないというか、そういう雰囲気だったんだ。でも、そんなものは吹き飛んだね。人生のなかでビックリは星の数ほどあれど、あれは最大級な驚きだった。『まさか、お前本当に、本当に、マジでZ1乗りなの?』で始まり、2、3回のジャブのような“Z1乗りだけが知っている事実” 確認の応酬があって、完全に相手をZ1乗りと認知できたんだ。生き別れた兄弟と再会したかのような怒涛の親近感に襲われて、その夜に“生涯の友”となる事を約束したんだ。『これは絶対に偶然なんかじゃない』って。そして我々は20年後も親友なんだよ」




人気記事




カワサキイチバン